僕とコードとブルーハワイ

omega (@equal_001) の日記

最近、価値観の合う友人が増えて色々嬉しい。

私は価値観というものは生きている人の数だけあると思っているが、人前で公表すると「そんなのおかしい」と袋叩きにされる価値観も残念ながら存在する。
ついこの間、SNSで朝方の夜型に対するあたりの強さに対して「マジョリティの無自覚な暴力性」と表現していた方がいたが、私や友人たちの持つ価値観はまさにこの無自覚な暴力に晒される可能性のあるもので。
ある知人は振り切っていて自身の人間性をフルオープンにしているが、やはりバッシングは少なからずあるわけで、自分を守るために外では「強いキャラ」の仮面をかぶって過ごしている。一見生きづらそうにみえるが、その人はそうしてでも本当の自分を抑え込んで生きるのが嫌だったのだ。

そんな私も少しずつ自分の価値観やスタンスを比較的オープンにしている。この人なら正直に話しても変に拒否してこなさそうだな、と思ったら話す運用。
まぁ話すときに受け入れて貰えるようにロジカルに話すようにはしているんだけど、それは置いておくとして、一定のラインを理解してくれている人とのコミュニケーションというのは心地がよく、純粋な楽しさがそこにある。


生きやすくなったという点では価値観の開放はおすすめしているが、ただオープンにすればいいというわけではなくて、自分が何故こういう考えになったのかという背景を深く理解する必要があると考える。
何故かというと、背景を理解するプロセスを踏んでいないと相手や自分の持つ価値観の底にある偏見に気付けない、または気付きづらい頭になってしまうと思うからだ。
偏見を自覚しないといつか「マイノリティの無自覚の暴力性」が表出してしまう時がくる。マジョリティ、マイノリティのどちらの視点にしろ、自身のスタンスをロジカルに説明できなければ感情で相手の立場を侵害してしまう可能性が出てきて、両者の溝は深まっていく。
自身の人間性と世間の「普通」との差分を自覚し、受け入れた状態で出来るだけオープンかつニュートラルに生きるのが一番良いのではないか。
とかちょっとまじめ〜に考えてた。

話は少し変わって、最近「あえて偏見の入った意見を喋りまくる」という遊びを友人やパートナーとしている。
ルールは「これはかなり偏見だと思うけど...」をつけてから話すだけ。
各人の本当の価値観やスタンスが浮き彫りになって面白いし、お互いの自己開示になって仲が深まったり会話中に相手に指摘されて「無意識の偏見」に気付けるのも良い。
自分の頭で考える訓練にもなるし結構良い遊びだと思う。かなり相手を選ぶけど。